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日本生まれ、日本育ち、私は異邦人

 最近、自分が「外国人」になりつつあるのを感じる。自分の見知った言葉が全く異なる意味を持って発されることが増えた。「自粛」、「責任」もそうだが、私がもっと違和感を覚えたのは「言論の自由」という言葉だ。


 言論の自由という言葉は歴史と密接に関わりがある。日本に限って言えば、大戦中に日本政府の検問があり、政府の意向に沿わないあらゆる出版物が出版を禁止、または改訂させられた。異端分子の芽は摘んでおこうという考えからだ。
もちろん、大戦中にはあらゆる自由が存在しなかった。反戦を訴えるものは秘密警察に暴行され、集会は危険思想を生むとして即座に解散させられた。言論の自由は「表現の自由」とも言われることもあり、その名の通りあらゆる表現を保障したものだ。

 たしかに表現の自由は人が自由に発言すること、いかなる思想を抱こうが国が介入しないことを保障した。そして、これを広義に受け取り、国民も他者の表現を尊重すべきだとする考えは決して悪いことではない。しかし、表現の自由を「人はあらゆることを自由に発言でき、かつ、この発言は必ずしも好意的に受け止められるべきだ」とする使われ方には苛立ちを覚えた過去がある。

 人の悪口を言って回る人間は嫌われて当然だ。見境なく攻撃すれば反撃を喰らうのは自然なことだろう。小学生ですら発言には責任を持ち、言葉で他者を傷つけたならば謝罪を要求される。しかし、責任という言葉が自分が背負うものではなく、自分より目下のものに追わせるものになり、やがて「表現の自由」の意味を変化させた。ヘイトスピーチを批判する行為は「表現の自由」の侵害として現代ではあってはならないこととされる。


 もちろん、これは現代日本に限った話ではない。フリードリヒ・ハイエクは『自由の条件』の中で「自由」という言葉の意味が社会主義者によって変化させられたことを嘆いた。元来、自由(Liberty)は他者の抑圧のない状態のことを指した。今にも崖から落ちそうな人間も次に取り得る選択肢を自分で得られる限りにおいては自由だった。やがて社会主義者があらゆる欲望を実現させられる「自由」を説いた。「自由」に空を飛び回ゆユートピアを訴えて、やがて自由の意味は変化していった。

 現代ではあらゆる概念が無知を理由に書き換えられつつある。「壁ドン」の意味を誤用だと怒れるものには哀れみの目を向けられ、「ギガがなくな」らないものは恥ずかしい人間の烙印を押される。誰もが発言しうる現代では、言葉の意味の変化が早くなった。


 いや、言葉がある概念のイデアであるという事実がそもそも間違っているのかもしれない。我々は言葉が特定の事象と結び付けられているものと考えがちだ。しかし、我々は一時代にしか生きておらず、言葉の意味の変遷を経験していない。当然現代で古文調で話す者はおらず、江戸っ子も存在しない。昔から言葉の意味は都合良く組み替えられて、最も流通した意味が現在広く使われているだけかもしれない。 いずれにせよ広辞苑で「正しい日本語」を学んだ人間は、今急速に「異邦人」になりつつある。

 好んで新たな意味に迎合するつもりも、輪に加わって言葉の意味を訂正する気も起こらない。変化を目撃しているにも関わらず、驚きや悲しみはほとんどない。ときどき苛立ちは感じることはあったが、最近はそれすらもなくなった。言葉を交わせなくなる事実より、変化を客観的に見つめられている事実が自分が「異邦人」たる理由なのかもしれない。

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