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恋は慣れのはてに、愛は日常に

 好みは経験の集積から生まれる。ほかの多くのものと同じ後天的なものだ。ある食べ物が好きだと感じた場合それと似た料理を以前から好きだろうし、第一印象のいい人間はもともと好意のあった人物の面影を持っているだろう。何かを好きになるというのはそれなりの理由がある。

 どのように好みが形成されるかはわからない。経験をもとに無作為に取捨が繰り返されて好みが作られていくのかもしれないし、組み合わせで好みが一意的に決まっていくのかもしれない。しかし、好きになるという行為が先天的な、本能的に行為ではないということはいえる。
 そうした価値基準が先天的なものでないことを示す例はいくつかある。たとえば鳥のヒナは初めて見たものを親だと思いこむ。これを刷り込みという((厳密にはいくつか条件があり、種によっては動くものであったり、鳴き声を出すものなど異なっている。また刷り込みというように親と認識するまである程度の期間が必要)(1))。対象が誰であっても親鳥だと覚えるのだ。はじめて見たものを基準に安全かどうかの境界線を引いていく。先天的に庇護者を記憶して生まれてくるのではない。成長の過程で自分を取り巻く環境について学習する。
 子供は恐れを知らない。痛みを通して危険なものを覚えていく。北海道で生まれ育った人間はゴキブリを恐れることがない。誰もゴキブリが恐怖の対象だと教えないからだ。生き物が本能で恐怖を感じるのなら、なぜどう猛な生き物であっても子供期間は警戒心がないのだろうか。
 もちろん遺伝的影響も唱える説もある。例えばセロトニントランスポーターという不安を抑制する遺伝子の量が人種や地域によって違うという説だ(2)。他にもマウスは世代間で心的外傷が遺伝するという研究結果がある(3)。だが、人間の場合でこうした本能的なものが遺伝するという説を立証しているものは存在しない。
 仮に先天的に人間の情緒や価値観が決まっているのなら、現代の社会システムは全て無価値となる。善悪問わずあらゆる行為に遺伝子の影響が大きく見られるのなら全ての行為は必然的なってしまうからだ。しかし、貧困にあえいだ窃盗犯は泥棒の遺伝子を受け継いでいるのではない。貧困にこそその原因が存在する。人間というものは後天的に形成されていくものなのである。

 では、好みとは一体何だろうか。まずは人間以外の場合を考える。我々は生き物を飼育した際に、飼い主と飼育されるペットの間の信頼を懐くという言葉で表現する。これは生き物や個体によって程度の差はあるだろうが、懐いていないペットは飼い主に心を開いていないと言えるだろう。たとえ爬虫類のような人間との共存が本来ありえない生き物であっても、主人の手から餌をもらっているとそのうち敵ではないとみなすものである。爬虫類が決して懐くことはないのは、本来的に仲間を必要としないからであり、外敵ではないと見なすのは主人とペットの間の最大の信頼関係であろう。
 あらゆる生き物は一朝一夕で懐くことはない。長い時間をかけて自分が敵ではないと示し続けてはじめて信頼関係が築かれる。たった一回好意を示しても壁を解き崩すことはできず、長い時間だけかけても危害を加えていれば距離は離れていく。長期間にわたって相手に好意を示し続けてはじめて信頼というものが生まれる。結局のところ懐くというのは相手が自分に善をもたらす相手だと知ることなのである。
 これは人間にとっても同じである。ある体験を繰り返すたびにだんだんと慣れていき、やがてそれは好みへと変わっていく。なんとも思わなかった音楽が聴くたびに良く思えてくるのはその音楽に慣れた結果だ。コーヒーが好きなのは舌が麻痺したのではなく苦味に慣れた結果だ。若者が教師やタレントに恋をするのは、同級生よりもその相手についての方がよく知っているからだ。なにも感じない広告でさえも繰り返し見るたびに自然とその商品に手を伸ばしてしまうようになる。結局のところ何かが自分の中を侵食していくことが好きという感情の源泉になっている。
 もちろんある経験を繰り返したからといって必ず好きになるわけではない。その結果が好きと嫌いどちらかになるかは、さまざまな条件に左右される。例えば尊敬する相手の口癖が移り、好意を抱いている相手が好きなものは自然と好きになる。憂鬱時にする食事は決して美味しくはなく、嫌な思いをした場所は決して心地よくはない。ある行為が他の要素と結びつくことによって、それ単体であれば全く好みでなかったものに愛着を抱いたり、逆に好みであったものが嫌いに転じてしまう。

 そうした幾度とない試練の先には愛が存在する。愛とは何かについて深く知ることだ。個々の部分について好意の積み重ねが愛を作り出す。あることで嫌な思いをしたとしてもなお好きであり続けるのは、他の部分に対する好きがその一度の経験を補ってありあまるほど存在するからだ。全く知らないものや突拍子のないもので挫折すれば、それは嫌いのまま終わってしまう。だが、すでに好みの体系を築いたものであれば、数多くの経験がその挫折を打ち消すであろう。これは対人関係でも同じことだ。知ることがなければ好きになることはありえず、多くを好きにならなければ愛が生まれることもない。好きという感情が慣れの延長線上に存在するように、愛は好きの先にのみ存在している。
 だが、愛は一度成立すれば永遠に続くというものでもない。好きになったものであってもやがては色あせてしまう。それはより好きなものが現れる場合もあるだろうし、好きであることで得られる幸福感が薄れていく場合もあるだろう。家庭における愛が成立しうる条件はただ一つであり、崩壊する理由がさまざまな理由もここにある。ありのままを受け入れるだけでは、その情熱はいつかは尽きてしまう。なにかを愛し続けるには、常に慣れの過程を繰り返さなければならないのである。
 あるものが好きだとしても毎日全く同じことを続けていてはそれを好きであり続けることはできない。愛せるものを手にしたと立ち止まってしまえば、やがてそれはなんともない日常へと変わる。なにかを好きであり続けるためには常に変化し、より多くを知る必要がある。すでに知っていることについてさらに知ろうとすることは難しい。前進するたびに大きな試練が待ち受けるであろう。しかし、その試練を乗り越えることで一層強固な愛が生まれる。好きとは決して心地よさに安住することではない。より強固な愛を手にしようと奮闘する戦いこそが「好き」なのである。



参考
(1)刷り込み(すりこみ)とは - コトバンク
(2)日本人はセロトニントランスポーターが少ないという話の出典 - 発声練習
(3)親が受けたストレスの影響が子供に遺伝するメカニズムが解明される - GIGAZINE
セロトニントランスポーター遺伝子とは。日本人に不安症や心配性が多いわけ。 | Exist
ザイオンス効果の用語説明|ferret
ミラーリングとは - コトバンク

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